昨年10月にバーナンキがノーベル経済学賞を受賞したのは「不吉」なことである。それは多くの経済学者の関心事が金融危機だからだ、と当ブログで書いたが当たってしまった。アメリカで大きな地銀が潰れた。銀行が潰れる事は実はそれほど珍しいことではないが、経営に不安を憶えた「預金者の取り付け騒ぎ」に端を発する実に古典的な「金融恐慌」のパターンである。 その後欧州に飛び火し、かねてから経営危機が伝えられていたクレディー スイスが破滅の淵にたった。その後スイス中銀が資本介入を発表、とりあえず首の皮はつながった模様である。

 信用創造が信用不安に変わる。

 貨幣数量説の立場であれば、実際の取引に必要な貨幣量以上の融資は必要ないから、信用創造はなされたとしても限定的である。理屈上は貨幣の中立性から信用創造で経済成長は起こらない。手持ち資金以上に融資すればそれらは「信用創造」という。信用創造は派生商品や債権でも起こり得る。しかしそれらは全て「借金」であるから実際に「返済される」という「思い込み」が膨張した金融市場を支えている。これは単に「思い込み」であるから、一度思い込みが崩れるとパニックになってしまう。信用創造そのものが未来の返済可能性という「思いこみ」に過ぎないから、思い込みはちょっとしたきっかけで壊れてしまい元には戻らない。

 自己利益に忠実というゲームが「ババ抜き」に変わる

 自己利益で動くと、全体としては不合理な結果を招くというのはケインズの「合成の誤謬」で知られている。企業が財務を健全化しようと一斉に債務の削減を始めると、全体では信用収縮が起きて経済が悪化してしう。 リチャード クーは日本の90年代の状況を「バランス シート不況」と呼んだのがまさにコレである。 自由主義経済下においては「利己的」に利益を追求することそのものは「悪」ではなく、むしろ常識であり、デフォルトである。もちろん利己的な行動が招く不合理は存在するが、合理的に解決できるとは限らない。マルクスが言ったらしい「恐慌の必然性」というのは間違いではない。 不良債権に象徴されるが、今後はコレだけにはとどまらないババの押し付け合いに耐えてこそ自由主義経済である。信用不安というのはみなが納得が行くまで終わらないが、経済というのはいくらかは負い目や「マゾヒズム」で回っているのである。